2018年5月10日 (木)

ガーデニング 再開!

2018年05月09日

 11時45分起床。早速に、作業服に着替え、まずは、生垣の「カイズカ」の大枝の切り落としから始めた。

 もう樹は、数メートルまで伸びており、最後は、2メートル程の高さに切りそろえる予定だ。そのためには「幹」を切断しなければならないので、「小型電動チェーン・ソー」を購入し、事前に「取扱説明書」を熟読したというわけである。

 まずは、南面から、そして西側に移り、更に「柘植」の木を切る。この木には、太い葛がのし掛かるように覆おっており、まずはその葛を根元から切り、更には、枝葉が広がり、家屋の壁面を撫でるように伸びているので、その様な状態になっている「柘植」の幹を切る。南面では、「百日紅(さるすべり)」が、「カイズカ」と絡み合っており、適当に、根元から切断した。

 西側は、数種類の樹木を植えており、「辛夷(こぶし)」もあるのだ。以前、地区の世話役も務めたことのある方が、この花が好きだと言って、枝を切らせて下さいと言ってきたので、「どうぞ」と伝え、代わりにと「だいだい」を持ってきたのでありがたく頂戴し、二、三日のうちに20個ばかりを平らげた。この「こぶし」は未だ手を着けていない、もしかしたら、枯れているかも知れないと思いながら、ほかの作業を続ける。

 「柘植」の剪定が終わると、次は、問題の「シナモン」の木である。以前、枝を切り落としたが、考えていたよりも大径になっており、作業の段取りを考えながら、とりあえず、家屋の壁面を撫でるように張った枝のみの伐採にしておいた。 この木は、電柱からの家屋への「引き込み線」の真下にあり、大風が吹くと、「断線」となりかねないほど伸びているのである。これも思い切った処置が必要なのだ。生木でも、「シナモンの油分?」の為か、激しく燃える。枯れると、葉に火の粉でも落ちると、その延焼は凄まじい。注意が必要なのだ。

 今日の伐採、切り落とし、剪定は、ここまでにし、「梅の木(小梅)」の実の着き方を確認する。もう、そこそこ大きくなっており、手の届く範囲で摘み取る。それでも「小ザル」に二杯半ほどにはなった。以前には、「梅酒」にしたり、醤油につけ、「梅酢醤油」にしたこともあったが、今年はどの様にするか思案中だ。
 「桜切るバカ、梅切らぬバカ」などの、「諺」があるが、長年放置してきた付けが回ったのか、あまり良い状態ではない。今年は、上手く剪定し、収穫を期待しよう。

 あれやこれやで、もう18時半だ! 急いで、作業服を着替え、手を洗い、衣服を振るって、ゴミ落としをする。あとは、もう今日は出掛けず、冷蔵庫内のものを使い、簡単に、調理して、これを肴に、ヴィデオを見ながら軽く飲むことにした。

 20時頃から、定例の「着メール・チェック」を行いながら、フェイスブックの「友達」への返信と「記事」の投稿だ。 ブログにも載せるものがある。

 もう24時になった。

 

2018年5月 9日 (水)

天気良好! 

2018年05月09日

 昨日の「ノアの箱舟」の記事に手間取り、とうとう24時を回り、今日の03時半まで掛かってしまった。その後、寛ぎをかねて、ヴィデオを見ながら、軽くグラスを傾ける(好きだね)。

 04時半から、簡単に日記整理を行い、「ガーデニング」で使用する機具の「取扱説明書」を熟読する。どうも、添付の「オイルの量」だけでは、心許ない。後日、大型容器の「オイル」を予備に購入する必要がありそうだ。

 インターネットで注文した「書籍」を受け取るために、街に出ることになるので、合わせて購入する予定だ。今日は、どうしても、昼近く開始となるので、今後は、朝から作業に掛かることが出来るように、生活のリズムを変えねばなるまい。日中は、「ガーデニング」作業。夕刻には、早めに「夕食」を済ませ、「読書」に時間を当て、夜更かしをせずに(ガーデニングで疲れれば、そうもしてはおれぬ)、適当な時間に就寝し、作業に備えなければならぬ。

 06時に就寝。11時45分起床。  ( 「ガーデニング」に続く )
 
 

2018年5月 8日 (火)

ノアの箱舟(方舟)、ノアの大洪水

2018年05月08日

 先日、とあるところで、「濁流、奔流」を撮した写真に出くわし、ある想念が沸き起こった。其れは、レオナルド・ダ・ビンチの描いた「最後の審判」のモチーフは、「ノアの大洪水」からヒントを得たのではないかと言うことである。もし「神の審判」、「最後の審判」があるとすれば、其れはどの様なものであろうか、きっと「ノアの大洪水」のようなものではないかと、ダヴィンチは考えたのではないであろうか。もっともこれは、私の勝手な思い込みかも知れぬが。

 そこで、これまでに少しは溜まった、スクラップ文献を、このブログに載せることにしたわけである。しかし文献のファイルの種類によっては、スムーズに事が運ぶわけではないので、そこは諦めることにした。
 少し前、博物館の催しを見学した際、「ノアの箱舟」をモチーフにした屏風絵に出くわし、痛く興味がわいたのであるが、其れをここに載せることにした。また、とある「宗団」の手になる、彼らの「ノアの大洪水」の理解の仕方に付いても関連資料を掲げることにした。


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注 下記は、とある「宗団」に属する者の報文であることを念頭に読むこと。

古代メソポタミアから見た大洪水
 私が話しかけた青年は歴史を学ぶ学生でした。私が聖書の歴史に関心があることを話した時,その学生は,「聖書から何を得られるとお考えですか。もっと古い歴史上の記録があることをご存じないのですね」と言いました。この言葉は今でも私の耳にこびりついています。
「何のことを言っておられるのですか」。「ギルガメシュ叙事詩ですよ。その歴史は聖書の記録よりもずっと昔にさかのぼるんです」。
私は,古代バビロンのギルガメシュ叙事詩の中に,全人類を滅ぼした大洪水に関する記述があることを思い出しました。この洪水伝説が,聖書の創世記 6章から8章にある大洪水に関する記述よりはるかに古い歴史に基づいていると言う人は多くいます。
好奇心にかられた私は,この問題を少し調べてみる気になりました。蔵書の充実したウィーン国立図書館で,ギルガメシュ叙事詩に関する専門書を何冊か見つけることができました。その調査の成果の一部をみなさんにご紹介しましょう。

バビロニアの洪水説話
 世界的な洪水が起こってノアとその家族が生き残ったという聖書の記述は19世紀の初頭に痛烈な批判を浴び,多くの人から単なる伝承にすぎないとして軽視されていたことが分かりました。しかし1850年の春に考古学上の発見がなされ,ノアの時代の洪水に関する世界的な関心が再び高まるようになりました。ニネベを発掘した結果,粘土板が至る所に見られる部屋が見つかりました。考古学者たちが発見したのはアッシリアの支配者アッシュールバニパルの粘土板書庫だったのです。
その後,大英博物館のジョージ・スミスがこの粘土板の楔形文字の解読を行なっている際に,ギルガメシュ叙事詩として知られる一続きの粘土板に出会いました。その中の1枚の粘土板を研究していた際に,スミスの心は喜びで躍りました。彼は一文字ずつ判読してゆきました。それは次のようなものです。
「シュリッパクの人,ウバラ‐トゥトゥの息子よ!(汝の)家を壊し,船を造れ!(汝の)所有物を捨て去り,命(を救うこと)を求めよ!……あらゆる生き物の種子を船の中に入ら[しめよ]。汝が造るべき船,その寸法は(正確に)測らなければならない……」。
スミスは,自分の扱っているものが,アッカド語を話す人々の観点から見た洪水に関する報告であることを理解しました。
この書板は西暦前7世紀のものでしたが,この創作に用いられた原典はそれよりずっと古いことを学者たちは察知しています。今日では,これより古い記述が幾つか発見されています。洪水に関する聖書以外の記述で最古のものとされているのはシュメール人の物語です。壊れた粘土板の上に記されたこの物語の断片は,メソポタミア南部のニップールで出土しました。専門家の中にはこれが西暦前21世紀から18世紀の間に記されたと見る人もいます。このシュメール人の文書の1節は次のようになっています。「わたしの教えに耳を[傾けよ]: 我々の……により,洪水が異教の中心地を[流し去る]; 人類の胤を絶ち滅ぼすために……これは[神々の]評議の言葉,その決定である」。

ギルガメシュ叙事詩
 ギルガメシュ叙事詩に戻りましょう。ギルガメシュはウルク(創世記 10章10節ではエレク)の町の初期の支配者だったと考えられていることが分かりました。シュメール王名表は,この人物を,ウルク第一王朝の王として挙げています。ある事典はこの人物についてこう述べています。「西暦前1900年ごろからもっぱら断片的に伝えられているに過ぎないが,シュメール人の神話的叙事詩の集成はギルガメシュを中心に据えている」。
ギルガメシュ叙事詩自体の中に幾つもの詩があり,それらがまとまって一つの作品となっています。その粘土板は12枚に及び,その11番目に,私の興味を非常にそそった洪水物語が記されています。その内容は要約すると次のようになります: ギルガメシュは友エンキドゥの死を知る。その結果,死の恐怖に駆られたギルガメシュは,人間でただ一人永遠の命を持つと言われるウトナピシュティムを尋ね求める。ギルガメシュは渡し守を用いて死の川を渡り,ウトナピシュティムに会い,洪水のことやウトナピシュティムがその洪水をどのように首尾よく生き残ったかを話してもらう。もっと歴史の古いバビロニア版の洪水物語では,ウトナピシュティムは,“優れて賢い者”という意味のアトラハシスの名で呼ばれています。
粘土板上のこの情報は本当に重要なものです。空想的な部分が大半を占めているとはいえ,これは大規模な洪水のことが人類の記憶の中に刻みつけられたことを物語っています。

意見の相違
 専門家によるギルガメシュ叙事詩の注意深い調査がなされた後,叙事詩の中に述べられているメソポタミアの洪水の記述と聖書中の洪水の記述のどちらが古いかをめぐって,意見は二つに割れました。聖書の記述の方が新しいという見解をとった人は少なくありません。例えばC・W・セラムは「神,墓,学者」という本の中で,「聖書の洪水説話の原典となるものが発見されたことは疑えない」と主張しています。私が話をしていた先ほどの青年の見方も,恐らくこのような意見に基づいたものだったのでしょう。
しかしそれは正しい見解ですか。創世記の洪水物語は,本当にシュメール人やバビロニア人の伝説に源を発するものなのですか。その質問に答えるには,聖書中の洪水に関する記述とギルガメシュ叙事詩のそれとを比較するのが最善のように思えます。

幾つかの類似点
 古代の諸民族の歴史の中で,全地球的な洪水は特異な場を占めています。地上の各地から,100以上の別箇の洪水物語が見いだされています。その中の一つがギルガメシュ叙事詩なのです。
この調査に示されているように,洪水に関する古代メソポタミアのこの記述は,聖書中のそれとある点で類似しています。例えば,二つの資料とも,わずか数人の生存者を残して全人類が破滅を被ったと述べていること,一人の人が救いのための船を造るよう命じられていること,天から何日もの間雨が降り注ぐこと,その後に,乾いた陸地が現われたかどうかを見定めるため船から鳥を放つこと,救いの船を出た後で,生き残った人々が犠牲をささげること,などがそれです。
このような類似点は,ギルガメシュ叙事詩やそれに先立つメソポタミアの洪水伝説が聖書の記録より順番が先である証拠になるのですか。この質問に答える前に,特に次のような問題を取り上げるのは有益ではないでしょうか。それは……

顕著な相違点
 まず,洪水の起こった原因についてです。ギルガメシュ叙事詩によると,神々の評議で洪水によって人類を滅ぼすことが決まります。この決定は秘密裏に保たれるはずだったのですが,エア神(シュメール語版では“エンキ”)はそれを自分の寵愛していたウトナピシュティムに話してしまいます。
これより古いバビロニアのアトラハシス叙事詩が述べるところでは,神々の一人(エンリル)が人間の立てる騒音に睡眠を妨げられます。エンリルが“偉大な神々”の評議会に助けを求めたため,神々はその後約6年間ききんを生じさせますが,期待した静けさは訪れません。神々が洪水を起こす決定を下した時,エアはその計画をアトラハシスに明かし,アトラハシスは神から指示された寸法に従って,生き残るための船を造ります。
聖書中の洪水の記録はこれとは全く趣を異にしています。その中には,洪水が生じた,まさしく正当な理由が次のように説明されています。
「エホバは,人の悪が地にあふれ,その心の考えのすべての傾向が終始ただ悪に向かうのをご覧になった。そして,地は真の神の前に損なわれ,地は暴虐で満ちるようになった。それで,神が地をご覧になると,見よ,それは損なわれていた。肉なるものがみな地でその道を損なっていたからである。そののち神はノアにこう言われた。『すべての肉なるものの終わりがわたしの前に到来した。彼らのゆえに地は暴虐で満ちているからである。いま,わたしは彼らを地と共に滅びに至らせる』」―創世 6:5,11‐13,新。
洪水で死ぬか,それとも生き延びるかに関して,聖書は,人々が死んだのは,生き残るための箱船に関連してノアとその家族が行なっていた仕事にも,「義の宣明者」としてのノアが語った事柄にも『注意し』なかったためであると述べています。(マタイ 24:39。ペテロ第二 2:5)ノアの警告と模範に従っていたら,人々は生き延びていたことでしょう。
それに,聖書の中には,神がこれから起こす全地球的な洪水のことを極秘に保つようノアに命令した記録もありません。ところがメソポタミアの伝説が示すところによると,エア神はウトナピシュティムに次のような事柄までも勧めているのです。それは,来たるべき大惨事のことを同時代の人々に気づかれないよう,ウトナピシュティムは人々を欺かなければならないという勧めです。
洪水のもたらした結果に関しても重要な相違点が認められます。ギルガメシュ叙事詩の場合は,神々があわてふためき,アヌ神の至高の天に逃れ場を見いだします。そこに入る前に神々は「犬のように身をすくませ」,苦しみのあまりうずくまって壁の所に押しつけられます。そして泣きながら抗議の声を上げます。特に女神イシュタルは,初め神々の評議において人間を滅ぼすのをよしとしたことに対し,激しい自責の念に駆られます。
さらに別の相違点があります。叙事詩の方には,洪水後ウトナピシュティムがまさに犠牲をささげようとした際,「神々はハエのように奉献者のまわりに群がった」と記されています。「偉大な女神」イシュタルはエンリルを犠牲にあずからせないようにしようとして,災難を引き起こしたことでエンリルを非難します。メソポタミアの記述では,エンリルが,人類のうち一人が生き残ったことを激怒する者として描かれています。
類似点と相違点をこのように分析することによって,どちらの洪水の記録が先行するかを決定する上で大きな助けの得られることが分かりました。そして,この国立図書館の他の参考文献も,私の結論の正しさを確証していました。

「関連があるとは非常に考えにくい」
 P・J・ワイズマンは,古代バビロンおよび聖書中の洪水の記述に見られる相違点に注目し,「創世記に関するバビロニアにおける新発見」の中で次のように述べています。「聖書の記述は概念が簡潔であって,神についての教えには責むべきところがない。しかるにバビロニアの粘土板の方は複雑で多神論的である。この相違は,テムズ川の源流の泉にある清らかな水と,ロンドンの波止場にある汚染された水との相違になぞらえることができよう。川の源流と河口には幾つかの共通点がある。両方ともある意味で同一の川だ。同様に,我々が創世記に見いだすのは,純粋な水源にある物語であり,バビロニア人のものに見いだせるのは,汚染されたその変形である」。
聖書が古代バビロニアの洪水物語と無関係であることについて,フリッツ・リーネッカーによる「聖書辞典」の中に次のような解説が載っています。「しかし,双方の本文に見られる手法や内容の相違を考えると,聖書の全く非神話的な洪水物語が,バビロニア人の物語と文学上の関連があるとは非常に考えにくい」。
自分で聖書の年代学を研究した結果,創世記の筆者にはバビロニアの伝説を借用する必要のなかったことが分かりました。洪水に関する真理は,ノアの息子セム(目撃証人の一人だった)から,わずか3人の人を経由するだけで,創世記の筆者モーセにまで容易に達することができました。人々の生存期間が重なっていたためです。ノアと同じ神を崇拝していたヘブライ人が,自分たちの歴史の中にかくも重要な出来事を含めなかったと考えるのは道理にかなっていません。
聖書筆者たちが創世記の記述の正しさを支持していることにも気付きました。例えば,イザヤとエゼキエルは,ノアとその洪水に注意を促しました。(イザヤ 54:9。エゼキエル 14:14,18,20)使徒ペテロも使徒パウロも洪水のことを特に取り上げています。(ペテロ第一 3:20。ペテロ第二 2:5; 3:5,6。ヘブライ 11:7)そして,モーセを含めたこれらすべての聖書筆者たちは,「神の霊感を受け」ていました。それは彼らの記述の真実さを保証するものです。―テモテ第二 3:16。
イエス・キリストも,創世記の記録が真実であると認められました。現在の邪悪な事物の体制の来たるべき滅びについて話された時,イエスは言われました。「洪水まえのそれらの日,ノアが箱船に入る日まで,人びとは食べたり飲んだり,めとったり嫁いだりしていました。そして,洪水が来て彼らすべてを流し去るまで注意しませんでした」。この体制が終わる時もそうなるでしょう。―マタイ 24:37‐39。
こうして,自分で調査した結果,洪水に関する聖書の記述が信頼できる真実なものであるとの確信を強めることができました。それは,初期の民族が有していた変転きわまりない誇張された民間伝承に基づくものではありません。―寄稿。

                             目ざめよ! 1980.10.08

 
 参考:現在、筑摩書房・学芸文庫に「ギルガメッシュ叙事詩」(矢島文夫 訳)あり


2018年5月 7日 (月)

原子爆弾を巡って  その一

2018年05月07日

 私が、彼と会ったのは、もう45年も前になる。 仕事場の同僚で、「長崎で本科」を学び、「鹿児島で専攻科」を学んだ。

 その彼が、仕事の休息時間に、話してくれた事だ。

 長崎に原子爆弾が投下され、多くの人命が失われ、放射能障害で苦しむ人が、今なおいることもご存知の通りだ。また、このあと鹿児島を襲った、世に言う「枕崎台風」は「鹿児島」にとっては、「死の台風」であり「豪雨」をもたらした。これまた「大きな災害」となった。
 しかし、この「枕崎台風」は、長崎にとっては、「恵みの雨」をもたらした。「原爆による放射能」を「豪雨」が洗い流してくれたのである。

 彼曰く。「枕崎台風」は、鹿児島にとっては「豪雨」をもたらした「死の台風」であったが、長崎には「恵みの雨」をもたらした。

 秋月辰一郞 著「死の同心円」(講談社:昭和47年7月 刊行)

 彼が、学校の図書館で読んだのは、この初刊本ではなかろうか。私が、インター・ネットを始めるようになり、「図書の検索」が、少なからず容易になり、探し当てた本は、ご覧の通り「長崎文献社」版であり、「初版 2010年6月30日」となっており、私が入手したものは「第6刷 2012年8月2日」である。

 また著者の最後も涙を誘う。

 「13年間の昏睡状態の末」平成17年10月20日、89歳で永眠、とある。

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雨です! ずぼら生活?

2018年05月06日

 05日の夜から、あまり良い天候が望めそうになく、夜なべのデスク・ワークだ。私の生活は、「眠たい時に寝る」生活なので、「読書」をするか「パソコン」もしくは両方で時間を過ごす。

 今日は、08時に床に就いたが(従兄の法要が間もないので、期日等に変更がないか確認のE・メールを入れてから)、眠りが浅かったのだろう、昼前、呼び鈴(チャイム)の音に目覚め、出ると「宅配」業者から荷物が届いたとのこと(午後から雨との予報だが、もうパラついている)。中を確認せず、そのまままた二度寝! 起床したのは13時半だ。

 ポットのお湯を使い、お茶を飲みながらメールの返事が来ていないか確認するも、返事無し。

 そのままパソコン作業を続け、「ブログに載せる記事」の想を練りながら、各種のデータを作成する。ものによっては、直接打ち込むことも可能だし、もしかしたら、過去に作成した文書を「コピー」し「貼り付ける」事が出来るかも知れない(未だ一度も試したことがない)が、一度挑戦してみる必要はあるだろう(笑い)。

 15時過ぎ、外出準備をする。昨日より少し気温が低いので、一枚羽織る。 珍しくバスは時間通りに来た。「早い夕食」を摂る「食事処」に入ると、ママが「今日は、バスは遅れなかったようね」の会話から始まった。いつもの「ママのお任せコース」を酒の肴に、「日本酒一合」を飲み、あとは「焼酎の水割り」だ。水は、クーラーを通しての冷水、これで十分だ。あまり身体を冷やすのは良くないので、この様にしている。もう少し暖かくなれば、「日本酒」にかえて、「ビール」にするのが、いつものパターンだ。

 日曜日、大したテレビ・ドラマもなく、ただ眺めているだけ。ここは、アンテナの位置も悪いのか、TVのチャンネルが少ない。ママの娘婿の方が、「電気工事士」でもあり、具合を見て、位置を変えようとの話をしていたが、ママも「あと何年やれるか分からない」という気持ちもあり、あまり乗り気でないのが分かる。しかし、こちらは気にしていない。適当にニュースを見ることが出来れば良いし、この様な番組でなければならない、と言うわけではない。

 そうこうしているうちに、早二時間がたつ。勘定を済ませ、「明日また来る」の言葉を残し(歌:ボヘミアン ばりですね)、至近便で帰路へ。途中、ドラッグストアで買い物(商品の展示が少々変わっている)をし、帰宅18時半頃。再び、パソコンを開き、メールを確認すると、「日時の変更はない」との事。宅配の荷物を確認したり、買い物品を整理したりする。20時頃休む。

(続きは、ブログ「政治・経済」の方へ)

岡山のこと

2018年05月05日

 ガーデニングの後、汗に汚れた衣類を洗濯し、身体の清拭を行って着替える。
 今日は夏日で、思い切りラフなスタイルで、「食事処」に出かけ、早い夕食とする。もっとも、私は遅い昼食か早い夕食が殆どで、ついでに一杯をやる。「ママのお任せコース」で、家庭料理を食べるような気持ちで、「副食」主体だ。「食べ物の好き嫌いはない」(女は食べない:笑い)ので、ママも料理を作りやすい。

 やがて、菜園が実り始めれば、一人で全てを消費するのは大変なので、ママの所に届ける。すぐ近くのスナックのママが時折、「ミニトマトのワイン漬け」を付き出しにしてくれるが、なかなか味わえる。皮を剥いて漬けるので、味の染みこみが良いのだ。熱湯を掛けてやると皮を剥きやすいとのことであるが、自分で行う時は、ペティナイフで皮に適当に傷を入れるのだが、味の染みこみは今一だ。

 他でもない、今日はその「食事処」で見たテレビの話だが、「岡山」には「種々の縫製工場」が有るのだろうか。以前にも、地区のデパートに、「物産展」などが開かれ、「キャンバス(帆布)」の製品などを展示販売していたのを憶えている。
 私が興味を覚えたのは、「帽子」の縫製である。自身も、最近は帽子を好んで着用するので、益々興味がわいたというわけである。

 同級生が、岡山県美作出身だが、仕事で全国を回り、最後は、山陰・境港市、山陽とは違い雪深く、寒さも厳しいであろうが、定年退職後、終の棲家の如く根を下ろしたと、賀状にしたためてあった。大学時代の「同窓会」には一度も出たことがなく、この同級生から「何だ、お前来ているとばかり思っていた」との言葉は少々辛かった。「学科」が同じで、お互い下宿を往き来し、よく一緒に飲んだものだった。
 「同窓会」と言えば、先に50周年記念の「高校同窓会」が開かれたが、同じ大学に学んだ「同窓の仲間」は私を入れて3人だ。しかし、もう既に「私一人」となってしまったのである。高校時代の担任の先生は年相応に、まだご健在だ。そして、高校時代に教えを受けた先生は、この担任の先生のみだ。私たちより、一回り上であったから、「傘寿」を過ぎたかも知れない。

 大学時代の同級生、「大学校の校長」を務め、定年退職した友と、先のデパートで会い、「今度、秋頃になるが、こちらでクラス会を開催するから、手伝ってくれ」と言われ、OKしたが、未だ連絡は無い。いずれ連絡が入るだろう。今度は出席するつもりだから、美作出身の同級生と会えるのを楽しみにしている。

 この様なことを想い出しながらの、「早い夕食」であった。


(注)
  なれぬブログ記事作成で、彼方此方に「誤変換」が有るのを承知で、そのままにしていたが、
 今日は、思い切って「訂正作業」を行って、成功した。種々トライしながら頭のサビ取り敢行  だ。もっとも、全ての記事に対して行ったわけではないので、見苦しさは、大いにあるだろう。

2018年5月 6日 (日)

植えたぞ~~~~~~~全ての苗を!

2018年05月05日

 今日は05月05日、今は亡き母が、「柏餅」を作ってくれたことを想い出す。父に連れられて、山に入り、「柏の葉」を取りに行ったのだ。その経験で、柏の葉を憶えた。適当な葉をあまり得られない時は、「桜の葉」の大きなものを摘んで代用もした。
 この時期は、その思い出に馳せる時なのだ。その父は、還暦を迎えることなく他界した。私がやっと二十歳を過ぎた頃だ。95歳になんとする迄生きた母とは、一度は妻を迎えた私ではあるが、同じ屋根の下で生活した月日は、妻とより長い。私が、土いじりを、苦痛と感じることなく、楽しむことが出来るのは、父、母の影響かも知れぬ。職場の同僚、先輩、後輩は「爺臭い」と言って、侮蔑するが、いっこうに構わぬ。

 この5日、01時に起床し、パソコン作業などをした後、07時に休み、12時過ぎに起床して、菜園作業に取り組み、14時半に作業を終えた。
 一人生活だが、家庭から出る「生ゴミ」は99%を「EM発酵」させて堆肥にする。約半年間寝かせるので、年2回このように肥料にする。コンポストは使っていない。使用の仕方は異なるが、この発酵に際して得られる「水溶液」も、「液肥」として使用できる。水耕栽培、金魚鉢などに使用すると、金魚の排泄物の分解に役立ち、水質保全に貢献してくれる。
 
 ミニトマト2本、中玉2本、ゴーヤ3本、スイートバジル(鉢植え)2本である。
 
 この「スイートバジル」は、呑兵衛の私には重宝なのだ。各種のハムで包んで食したり、刺身、鰹のたたきを包んで食べる。相性が良い。もう既に、数枚は、使用に十分な大きさであり、もう一週間もすると、毎日、10~10数枚の葉を毎日食することが出来る。庭の草むしりなど野良作業の後のビールと合わせるのは最高だ。その他に、パプリカ、セロリ、パセリなどを包みバリエーションをかえて楽しむことが出来る。酒の肴は、これで十分だ!

 明日からは、小型チエーン・ソーを使って、生け垣の「カイズカ」、巨大化したシナモンを思いっきり剪定することにする。シナモンの枝葉も、この時期「サワー」にして楽しむことが出来る。ジョギングだ、ウォーキングだと何かにつけて、身体を動かすのではなく、日々の暮らしの中で身体を動かすこと、其れがまた一つの健康法だ。私はその様に考え、その様に暮らす。

 車を運転しないので、歩いて、30分の道程でも苦にしない。無論やがて、耐えがたいものになるであろう。竹内まりやさんの「人生の扉」のように。しかしその時には、「セニアカー」に乗り外出しよう。今より更に性能は上がっていることだろう。

2018年5月 5日 (土)

旅の思い出に ポルトガルの音楽(アマリア・ロドリゲス、ドゥルス・ポンテス)

2018年05月05日

 私の旅の思い出に「運命」という意味の「ファド」
 二曲

 まずは、「ファドの女王」、アマリア・ロドリゲスの「懐かしのリスボン」

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 次は、若き「ファドの旗手」ドゥルス・ポンテス「海から生まれしもの」

01.wmaをダウンロード

予定の「苗」を全て購入 準備OK!

2018年05月04日

 やっと目的の苗がそろった。5日は、天気も良く作業に最適だ。

 そして、必要な除草剤、小型チェーン・ソーも準備できた。

2018年5月 4日 (金)

ロカ岬:ポルトガルの思い出  (旅 : 想い、思い起こすもの)

2018年05月04日

 これは、それ程若くはない頃の話だが、もう一昔以上も前の旅の話である。

 昨日付の「ブログ日記」で、「本州最西端」を紹介したので、これに関連するヨーロッパ「ポルトガル ロカ岬」の話である。

 大航海時代のヴァスコ・ダ・ガマは、苦難の航海の末、今に言う「喜望峰」を回り、「インド洋」への航路を発見した。
 其れに準えるわけではないが、私のこの航海も、苦難の幕開けの旅であった。紅一点、多くの男の中に「女」が混じると言うことがどの様な問題を引き起こすか、涙なくしては思い起こせぬ「吾が旅」であった。

 ポルトガル! 「ヴァスコ・ダ・ガマ」の大航海を壮大にうたった叙事詩「ウズ・ルジアダス」で知られるポルトガルの英雄的詩人「カモンイス」。

 この詩の一節「ここに地終わり 海始まる」を題名に採った作家・宮本 輝氏の小説(講談社文庫で上下2巻)が在るが、この様なものを参考に、またインターネット地図を使って、「貴方の大航海」をして下さい。そして、このカモンイスの胸像があるという「マカオ」までも旅して下さい。日本とポルトガルは、長く深い交流があります。そのことに思いをはせながら。

 

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