2018年1月 1日 (月)

初夢  新三題

新たな伝説

初夢 あなたは何を見る

   第一題 神の使いか? 神獣か?

            白 鯨            

Dream1


   第二題 剥き出しの黄金?

   新たな黄金郷:正夢は地図を示すか!


Dream2


   第三題 富士山

       陸から陸を見る 否!
       海から陸を見て何故いけないか

   海にあるものが 陸を牽引し 導く 
          思想を抱いて何故いけないか!


Dream3


天衆降臨    わが魂の帰還

The sea appears today just as it did on the first day of creation.

Kourin


       私は神の息吹を吹く 甘美なエーテルを 呼吸する

           私の生命は 宇宙と同様に深い !


           In th beginning was the Word, and the
         Word was with GOd, and the Word was God.
           He was in the beginning with God;
           all things were made through him, and
         without him was not anything made that was
         made.
           In him waslife, and life was the light
         of men.
           The light shines in the darkness, and
         the darkness has not overcome it.
                         (According to JHON 1:1-5)


           In the beginning the Word was, and
         the Word was with God, and the Word was a
         god. this one was in the beginning with
         God. All things came into existence through
         him, and apart from him not even one thing
         came into existence.

           What has come into existence by means of
         him was life, and the life was the light of
         men. And the light is shining in the darkness
         has not overpowerd it.
                          (According to JHON)

2017年12月29日 (金)

出会うということ   「別れても」補遺

たどる記憶、呼び覚まされる記憶

      ♪ 人生って 不思議な 不思議なものですね~
      ♪ 出会いも 別れも あらがえないさだめ~
      ♪ あなた言ってたね 人は旅人と~
           街の明かり 数えながら つくづくそう思う~

 私が、先に紹介した「横山清子」の日記「別れても」に出会ってから、はや半世紀が過ぎました。
 この間に、様々な出会いがありました。とあるフリー・ペーパーのコラム記事がそれでした。このコラム記事に出会うことにより、記憶を呼び起こされ、記憶をたどることになりました。
 この日記に出てくる「子犬」が紹介されていました(記事では「こいぬ」)。無論、この喫茶店が紹介されたのは、今回ばかりではありません。それ以前にも、新聞で紹介されていました。

 今日はそれを紹介いたします(私のブログ「別れても」を参照しながらお読み下さい)。

Koinus

 この後に添えましたものは、大げさかも知れませんが、私の「一つの下関」であり、「私の出会った 純喫茶こいぬ」というものです。

 今では、蒙古のようなことは「忘れられてしまった」のかも知れませんが、ふと思い起こし、私も何か伝えたくて綴りました。  ご寛恕下さいませ。

* 唐戸の「小犬」

 学生時代(「日記」を読んでいた頃)、下関に住んでいましたが、この店を発見できませんでした。偶然とは恐ろしいもので、下関出身の妻が待合の場所にと連れて行ってくれたのが「小犬」でした。私は店名を見て、「おお!」と、思わず声を上げていました。
 「日記」にも、「サンデー下関」のコラム記事でも触れられていませんが、階段を降りて行き、店内は古民家を思わせるような「梁」がむき出しになっており、「異様」と形容できるものでした。
 その後、妻を亡くし、ふと思い出したように、この店を訪れたことがありましたが、内装は様変わりしており、店主である男性は(私より年長に見えました)、「昔の面影」については記憶がないようでした。

 ここに朝日新聞(1982.03.06 号)の「下関版」に、「のれん しにせ 味」のコラムがあり、喫茶店「こいぬ」が取り上げられています。
 私が結婚したのが、1982年ですから、妻に案内されて訪れた時、店主はこの新聞にある「永井幸子」さんだったのでしょう、きっと。

Koinua

 だが、私の記憶では、何代目かの方が、以前から店主は替わるが、店名だけは変えずに来ている旨を、はっきり語っている記事を読んだように記憶しているのですが、この店も度々、このようなコラムでに載ることがあったのでしょう。朝日新聞のみならず、毎日新聞、読売新聞などで取り上げられたことがあるのではないでしょうか。

 その後、唐戸にはたびたび行く機会がありましたが、内装の変わった「小犬」には、不思議と感慨がわきません。


* 西高、南高

 ここは、市内の俊秀が集まる高校のようですが、当時の学生さんでも、今では、75歳程度でしょうから、「横山」さんのことを記憶している方は居られるでしょう。これらのコラム記事を見た時、その時々に思い出したでしょうか。「私立女子高校 A学園」の同級生たちも思い出したでしょうか・・・・・。

 とある方の言葉に拠れば、

 「人は二度死ぬ。一度目はその死により、二度目は、その人のことを記憶している人が皆死んだ時に・・・・。」

 私のこの一文は、あのワープロ文書は多くの人の記憶を呼び覚ますことが出来たでしょうか、出来るでしょうか。

 自死した彼女は、”月見草がみえる、月見草が・・・・”と言っていたとのことですが、その彼女に次の詩を捧げましょう。

          別れても 別れても 心の奥に
          いつまでも いつまでも
          覚えておいて欲しいから
          幸せ祈る言葉にかえて
              忘れな草を あなたに あなたに

          いつの世も いつの世も 別れる人と
          逢う人の 逢う人の
          さだめは常にあるものを
          只泣き濡れて浜辺に摘んだ
              忘れな草を あなたに あなたに

          喜びの 喜びの 涙にくれて
          抱きあう 抱きあう
          その日がいつかくるように
          二人の愛の思い出そえて
              忘れな草を あなたに あなたに
                              (木下 龍太郎)

              FORGET-ME-NOT

 カラオケでも、この詩を歌いましょう、このことを想いながら。 歌手は「菅原洋一」さんでした・・・・・。


* 吉見

 彼女は「吉見」に住んでいたのだろうか。9月26日の日記には、自殺のために買い求める残りの百錠の「ブロバリン」を「吉見に帰ってから――-」と記しています。

 何を隠そう、「私も吉見に住んでいたのです。」
 これまたフリー・ペーパーで「海燕祭」(大学祭)の開催を知り、10月7日に訪れ、四十数年ぶりに「吉見」の町を歩きました。当時の所在地のままに在る店を見て懐かしくなりました。縁あり、今後この「大学」に足を運ぶことが多くなるのかも知れません。私は眠れぬ日々を過ごし、駅からすぐの橋のたもとにある「薬局」で、「トランキライザー」を買い求めたことがあるのですが、彼女の場合どの店で購入したのだろう。もう一見あった様に記憶しているのですが・・・。只の化粧品店だったのだろうか。この次、訪れる機会があったら確認してみましょう・・・・・。


* 喫茶店「ボルガ」

 私も、二三度入ったことがあります。下関郵便局前から駅横のガード下をくぐり、あるいは駅から漁港側に出て(まだ「シーモール」は出来ていませんでした)、道路を横切ってのところ、二階にある薄暗い喫茶店でした。下はパチンコ店。この喫茶店はいつまで在ったのでしょう。下関に出ても、こちらの方に足が向かないので、トント判りません。

2017年12月27日 (水)

天空への舞 (わが魂の飛翔!)

一気に舞い上がれ天空へ

My_flying_soul

没落を免れ、破局を尻目に飛べ 躊躇うな !

どれほど強く断念すれば
それほどにまっすぐ ひたすらにまっすぐ
かばわれる一枚の葉も 一本の棘もなく
すっくとのばした いさぎよい裸身の上に
あざやかな一輪を 咲かせることができるのか
                   (征矢泰子 ソヤヤスコ「曼珠沙華に」)

飛翔準備完了! 飛ぶ鳥は跡を濁さず

 アルバトロス(albatross)=アホウドリ

Albatross

 航海中この鳥が飛ぶと嵐の前兆とされた。海が荒れれば荒れるほど空高く飛ぶのだとか・・・。

 来年は、荒れに荒れ、皆が口にする共同体、「運命共同体」は危機に瀕し、没落するのだろう。

  To Be, To Be, Ten Made To Be.


恐竜卵化石 君は見たか!

 日本初の恐竜化石を紹介いたします。

Kasekia

Kasekib

Igi1_3

Igi2

2017年12月14日 (木)

驚愕! お尋ねいたします。 加えて報告。

 先般会議の中で、団長が「大丈夫でしょうか。あがりますかねぇ?」とおっしゃいました。これには少々ビックリいたしました。このことは真っ先に検討されたものと思っておりましたから。会社の方では、当初、どのように考えておられたのでしょうか。お尋ねいたします。

 またその後の作業について、少し知見が得られましたので報告いたします。

 「体積」は「相似比」の「三乗」に比例することから、下記揚鯨デーを検討してみました。

   鯨種        体長(m)   体重(ton)
------------------------------------------------------------
ニタリ鯨 1,     体長  11.30m    体重 10.81トン
ニタリ鯨 2,     体長  13.32     体重 17.32
マッコウ鯨,     体長  11.27     体重 19.71

 ニタリ鯨の「相似比」は、「大体長÷小体長」=「13.32÷11.30」≒1.18
これから、大体長の鯨の体重を予測すると、10.38×「(1.18)の3乗」≒17.7 となり、大体長のニタリ鯨の体重17.32トンにほぼ一致します。

 この方法で、マッコウ鯨13mの体重を予測してみました。
 19.71×「(13÷11.27)の3乗」≒30.2 30トンを超える重量になります。 15mでは、
 19.71×「(15÷11.27)の3乗」≒46.47 46トン半にも達する重量になります。

 これは、検貫台の取り付け部には、台重量3.2トンを加えると、13mのマッコウ鯨は、約33トン半、15mでは50トンにも達すること予想されます。
 これでは、検貫台用ホイスト「安全使用荷重:SWL=15トン」を遙かに上回る重量となります。体重19.71のマッコウ鯨は、頭部、背皮などを切り落としても、その重量は、11.4トンであり、台重量を加えると14.6トンになります。これは検貫台の安全使用荷重のほぼ限界値に等しい重量です。

 検貫に際しては、もっと部位を切り落として検貫するよう、調査団、作業員にも伝えてありますが、破壊した際には、「人身事故」につながりかねないので、この面においても不安があります。

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 現在、揚鯨に使っているハンギング・シャックルは「限界使用荷重:WLL(SWL)9トン」となっています。
 スリップ・ウェイの傾斜角度は、平均35°であり、鯨体の斜面を滑り落ちる力は、

    F=W・sine35°≒0.6W と見ることが出来ます。

 これから考えて、15トンの鯨は  9トン(シャックルのWLLと等しい)
         20トンの鯨は 12トン
         30トンの鯨は 18トン(WLLの2倍の力)の力が加わることになります。

 さらにワイヤ・ロープについて検討します。 ここでは、強度略算式によって考えて行きます。
 ワイヤー・ロープ直径をDとすると 
       破断力(略算強度:Bトン)=3×「(D÷8)の二乗」 となります。

揚鯨用メイン・ワイヤーの直径(D)は28㎜であり、破断力(B:略酸強度 )≒ 36.7トンです。

 通常、使用に際し安全率を見込必要用があり、考察すると、

 鯨重量W、 斜面を滑り落ちる力F、 破断力(B:36.7トン)/F  とすると、
 15トン   F= 9.0         B/F=4.0
 20トン   F=12.0         B/F=3.0
 30トン   F=18.0         B/F=2.0

 これは、 鯨重量が、重くなるに従い、メイン・ワイヤーの「安全率」(B/F)が小さくなっていることがわかります。「安全率」をギリギリ「4」としても、鯨重量15トンが限界という事になります。30トンの鯨を揚鯨する場合には、「安全率」は 「2」にまで低下することになります。つまり、13mのマッコウ鯨を揚鯨する場合には、「安全率が2」まで低下することになります。

 今、補助用に「22㎜径、20㎜径 」の両ワイヤーを巻き込んだウインチが使えることから、これについて検討します。

 大索D㎜ のワイヤーを 小索d㎜のワイヤー N本で代替するとすれば、その関係式は、
      N=「(D/d)二乗」     と理解される。

 D=28㎜、N=2とすると (dの二乗)=(Dの二乗)/2
                    d=D/√2=(D×√2)/2

 従って、 d=(28×√2)/2=14×√2≒20(㎜)
となり、この2本を均等に張り合わせれば、メイン・ワイヤーと同等の強度が得られる。
これにより、メイン・ワイヤーと2本の補助ワイヤーを併用すれば、重量30トンの鯨を揚鯨する場合でも、ギリギリ、「安全率 4」を確保できる。

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 その後、マッコウ鯨を揚鯨し、下記のデータから「実験公式」が得られましたので報告いたします。

      No.   体長L(m)  体重W(Kg)
      1.    11.27 m    19,504.4 kg
      2.    12.77 m    30,352.4 kg
      3.    11.61 m    21,339.8 kg
      4.     8.82 m    10,159.9 kg
      5.     8.17 m     7,363.3 kg

  実験公式 : 体長と体重の相関関係と相関式

         W=13.92×(Lの3.01乗)   (Rの二乗)=1.00

これにより、考察を進める中で、「三乗に比例する」事がほぼ裏付けられた。 

 しかし、なぜ「ほぼ」なのか。これは、並行的に、調べられた「ニタリ鯨」(43頭)の相関式から
         W=12.88×(Lの2.82乗)   (Rの二乗)=0.92 が得られており、  

 マッコウ鯨もサンプル数が多くなれば、変わったものとなることが推察される。

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 いくつかの資料は、次を参照されたし。
   鯨百科   : cook whale A cook_whale.pdfをダウンロード

          : cook B cook.pdfをダウンロード

   鯨三種ほか : three kinds three_kinds.pdfをダウンロード

   
      

2017年12月10日 (日)

太古の太洋よ!

          太古の太洋よ!
               おまえは すでに
                    を人間に与えた!
               おまえに敬礼する
          太古の太洋よ!

Minke

 年老いた海原よ、おまえが自分の胎内に人間にとっての未来の富を隠そうと思えば、出来ない事は何もないだろう。おまえはすでにを人間に与えた。おまえは自然科学の貪欲な目に、自分の内部構造の幾千の秘密をたやすく見抜かせはしない。おまえは慎み深い。だが人間はいつも鼻にかける、取るに足りないことまで鼻にかける。おれはおまえに敬礼する、年老いた海原よ!


 老いたるわだつみよ、あなたが人間にとっての未来の富を、胸にかくそうとおもえば、そうするのになんのぞうさもなかったのに。それでもあなたはすでにをあたえた。しかしあなたは、自然科学の飢えたる眼が、おのれの内部構造の幾千の秘密を覗きみるのにまかせはしない、あなたは慎みぶかいのだ。人間はたえず、しかもつまらぬことでもみせびらかす。ぼくはあなたをたたえよう、老いたるわだつみ!


古き大洋よ、おまえの胸に人間の未来に役立つものをかくしておくことに、不可能なことなどこれっぽっちもない。それなのにおまえはもう、人間にクジラを与えてしまった。だが自然科学の貪欲な眼が、おまえの秘密のシステムにひそむ数千の謎を見破ろうとしても、おまえはかんたんには許さない。おまえはじつにおくゆかしい。人間は、つまらないことでもたえず自慢するというのに。ぼくはおまえに頭がさがる、古き大洋よ!


年ふる大洋よ、おまえが人間に未来に役立つものをふところに隠しているというのは、けっしてありえないことではあるまい。おまえはすでに、人間にを与えた。自然科学の貪欲な眼にも、おまえは自分の内密な組織の数知れぬ秘密をたやすく見抜かせたりはしない。控え目なのだ。人間は絶えず自慢している、それも取るに足りないことばかりを。おまえに敬礼を、年ふる大洋よ!


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 については、フランスの歴史家ミシュレ(1798-1874)の「海」が参照された可能性が高い。「われわれは大いに鯨のおかげをこうむっている。鯨がいなければ、漁師たちは海岸にとどまっていたことだろう。なぜなら、ほとんどの魚は沿岸にいるからだ。漁師たちを解放し、あらゆる場所に導いたのは鯨である。」


また、詩人・ボードレール「人間と海」の次の四行に、極めて類似したイメージが見られる。

         きみも海もともどもに、陰険で口が固い。
         人間よ、きみの深淵の底を測った者は誰もいない。
         おお海よ、何人もきみの心の奥の富を知らぬ、
         さほどにきみらは、秘密を守るに汲々としている!


   ロートレアモン(イジドール・デュカス)伯爵「マルドロールの歌」をめぐって

2017年12月 9日 (土)

改訂版「別れても」

私のような、ビギナーが挑戦するような方法では無かったのかもしれません。ワープロで作成した文章、PDFで作成した大量の資料を「ブログ」の中にどのように取り込めば良いのか能くわからないのです。少しでも、私のブログ、「キムタク漫遊記」を開いて下さった方に何かを伝えたいと思うのですが、未熟者のせいで申し訳ありません。今日は本題から入るつもりでしたが、宜しく。

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「別れても」-----女子高生・横山清子・遺作集-----
    学習研究社 昭和41年 高一コース 3月号 第三付録より

これは文学を熱愛し、心の支えを恩師に求めた、一人の女子高生--横山清子さんの日記と作品です。文学と生活の三つながらを、どうしても同時に成り立たせようと、必死に思いつめ、ついにその重荷に耐えられなかった少女。卒業をひかえて、追いつめられ、迷い、あせり、それでも、けんめいに生きようとする、激しいいのちの燃焼は、そのまま、高校生のみなさんの一時期の心を反映しているといえるでしょう。

昭和35年10月4日の夜、彼女は多量の睡眠薬を飲み、翌朝、意識不明のまま病院に運ばれましたが、3時間後になくなりました。

”月見草がみえる、月見草が・・・・”

このうわごとが、最後のことばでした。
当時、18歳、下関市の私立女子高校A学園の三年生でした。

この遺作集が、みなさんの精神生活に、何らかの指針となることを願って・・・・・。

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さようなら(遺 書)
ばかに見えたら笑っておくれ

おかあさん
私は静かな気持ちになりました
自ら命を絶つかと思うと
おかあさん
からだをうんとたいせつにしてください
花がいけてあるおへや
なつかしいおへやです

とぼとぼとひとりの処女が、たそがれのいなか道を、疲れた足どりで歩いていました。時々頭をもたげては、山火事のような夕空を見上げました。疲れ果てても、ひとみは清く澄んでいました。ねぐらに急ぐ小鳥たちの姿を一つ見のがさず、なみだをためてほほえむのでした。処女も、小鳥たちと同時に、自分の家に急いでいたのです。黄金のほのおはうすらぎ消え、空は灰色になりました。暗い小さな入り口、みがきたてられた柱、処女は、しばらくそこに立っていました。柿の木の上に星が光っていました。生を受けて十八年、なんと短い夢だったことか、すべてが昔のままなのです。家の中から、夕食のしたくをしている音が聞こえました。母親の楽しそうな鼻歌が聞こえています。「おかあさん」と処女は叫びました。家の中は、急に深閑としましたが、また音が聞こえました。あまりに小さな叫び声なので、空耳だろうと思ったのです。処女は家の中にそっと入りました。そして「おかあさん」と叫びました。屋根裏の処女のへやは、母の心づくしのばらの花が飾ってありました。低い天井、小さな窓、この窓から夢を見たのです。壁にはってある自作の詩をほおづえをついてながめているうちに、月はのぼって落ちるのでありました。一晩じゅう、へやに閉じこもったきりなのです。母親は非常に心を痛めました。元気になってもらおうと、いろいろ優しくするのでした、。何か病気かも知れない。そんなことも母親は思うのでした。
「おまえ、医者にでもいってみたら、頭がすっきりするかもしれんよ」
「あ、だめなんですよ、おかあさん。むしばまれた心はだれも直すことができんの」
母親はどうしたらいいのかととほうにくれました。父がいないことが寂しいんだろうか、そんなことも考えました。
「元気を出して」これより他に、いうことばを知りませんでした。
「おまえのいうことは、おかあさん何でも聞いてやるから、気がねせずにいってみたら・・・・」
「何でも聞いてくれる・・?」
「うん、何でも」
「静かにしていたいの・・・・」
母親の顔はちょっとほころびかけました。すぐくらい階段を降りて行きました。そして、心配のあまりに、大声でいうのでした。
「いくじなし、ほっておけ・・・・」
しばらくして、また心配のあまりに二階に上がってみました。へやじゅう、書きなぐった原稿用紙が散らばっていました。処女は机の上にうつ伏して眠っていました。母親はにっこり笑って、静かに、音を立てないようにかえってゆきました。
「そうか、そうか、考え中だったんだ。また何か書いている」と、母親は安心して床につきました。
処女は立って窓をすっかりあけ放し、へやの中に月の光をいっぱいに入れました。外は明るく静かです。処女は、はるかなかなたを見つめていました。書いた紙は、きれいに折って、机の上の花びんの下におきました。処女の顔は、白く月の光に浮かんで見えました。そして、やがて石こう像のように冷たい動かぬからだとなりました。あたりは、いよいよ静かにさえわたっていました。へやの中はひんやりと冷気に満ちていました。処女のひとみは開いたまま、はるかなかなたを凝視していました。ははおやは、力なくへたへたとくずれてしまいました。あまりにもはかないので涙も出ないのです。

”死に場所を忘れなかった偉いでしょう。サヨウナラ”
    これが、花びんの下の紙でした。
              (35.10.4. 午前2時ごろ  キヨコ)

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この「別れても」の全容を知りたいお方は、次を参照して下さい。

  the_whole.jtdをダウンロード

   これは若き日、kimuratakumiが
      自 1967.11.10
      至 1968.12.08
   にかけて、筆写し、ワープロ文書に打ち直したものです。 

さすがに、またこれを打ち込むのは疲れました。ネットをやるために購入した「モバイル」は新機種といえども、変換作業は、難航いたしました。


「分かれても」  Forget-Me-Not

男女を問わず、古希を過ぎ、75歳になられる方々は、次のような事件をご存じだろうか。

wakaretemo.jtdをダウンロード

かつて、友人宅を訪れた際に、手にし読んでいると、その友人が、「気に入ったら貸してやる」と言ったので借りたのだった。大学ノートに、書き写し、つい先頃、そのノートからワープロで改めて打ち替えたばかりだ。日記の部分は今回は割愛させていただいて、「遺書」の部分を掲載させていただこう。

wakaretemo02.jtdをダウンロード

とある方の言葉に拠れば、「人は二度死ぬ。一度目はその死に因り、二度目はその人を記憶している人が皆死んだ時に・・・」とのことだ。

私のこの一文が、このワープロ文書の一文が、多くの人の記憶を呼び覚ます事が出来るでしょうか。

彼女の冥福を祈って、合掌。