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2017年12月 9日 (土)

改訂版「別れても」

私のような、ビギナーが挑戦するような方法では無かったのかもしれません。ワープロで作成した文章、PDFで作成した大量の資料を「ブログ」の中にどのように取り込めば良いのか能くわからないのです。少しでも、私のブログ、「キムタク漫遊記」を開いて下さった方に何かを伝えたいと思うのですが、未熟者のせいで申し訳ありません。今日は本題から入るつもりでしたが、宜しく。

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「別れても」-----女子高生・横山清子・遺作集-----
    学習研究社 昭和41年 高一コース 3月号 第三付録より

これは文学を熱愛し、心の支えを恩師に求めた、一人の女子高生--横山清子さんの日記と作品です。文学と生活の三つながらを、どうしても同時に成り立たせようと、必死に思いつめ、ついにその重荷に耐えられなかった少女。卒業をひかえて、追いつめられ、迷い、あせり、それでも、けんめいに生きようとする、激しいいのちの燃焼は、そのまま、高校生のみなさんの一時期の心を反映しているといえるでしょう。

昭和35年10月4日の夜、彼女は多量の睡眠薬を飲み、翌朝、意識不明のまま病院に運ばれましたが、3時間後になくなりました。

”月見草がみえる、月見草が・・・・”

このうわごとが、最後のことばでした。
当時、18歳、下関市の私立女子高校A学園の三年生でした。

この遺作集が、みなさんの精神生活に、何らかの指針となることを願って・・・・・。

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さようなら(遺 書)
ばかに見えたら笑っておくれ

おかあさん
私は静かな気持ちになりました
自ら命を絶つかと思うと
おかあさん
からだをうんとたいせつにしてください
花がいけてあるおへや
なつかしいおへやです

とぼとぼとひとりの処女が、たそがれのいなか道を、疲れた足どりで歩いていました。時々頭をもたげては、山火事のような夕空を見上げました。疲れ果てても、ひとみは清く澄んでいました。ねぐらに急ぐ小鳥たちの姿を一つ見のがさず、なみだをためてほほえむのでした。処女も、小鳥たちと同時に、自分の家に急いでいたのです。黄金のほのおはうすらぎ消え、空は灰色になりました。暗い小さな入り口、みがきたてられた柱、処女は、しばらくそこに立っていました。柿の木の上に星が光っていました。生を受けて十八年、なんと短い夢だったことか、すべてが昔のままなのです。家の中から、夕食のしたくをしている音が聞こえました。母親の楽しそうな鼻歌が聞こえています。「おかあさん」と処女は叫びました。家の中は、急に深閑としましたが、また音が聞こえました。あまりに小さな叫び声なので、空耳だろうと思ったのです。処女は家の中にそっと入りました。そして「おかあさん」と叫びました。屋根裏の処女のへやは、母の心づくしのばらの花が飾ってありました。低い天井、小さな窓、この窓から夢を見たのです。壁にはってある自作の詩をほおづえをついてながめているうちに、月はのぼって落ちるのでありました。一晩じゅう、へやに閉じこもったきりなのです。母親は非常に心を痛めました。元気になってもらおうと、いろいろ優しくするのでした、。何か病気かも知れない。そんなことも母親は思うのでした。
「おまえ、医者にでもいってみたら、頭がすっきりするかもしれんよ」
「あ、だめなんですよ、おかあさん。むしばまれた心はだれも直すことができんの」
母親はどうしたらいいのかととほうにくれました。父がいないことが寂しいんだろうか、そんなことも考えました。
「元気を出して」これより他に、いうことばを知りませんでした。
「おまえのいうことは、おかあさん何でも聞いてやるから、気がねせずにいってみたら・・・・」
「何でも聞いてくれる・・?」
「うん、何でも」
「静かにしていたいの・・・・」
母親の顔はちょっとほころびかけました。すぐくらい階段を降りて行きました。そして、心配のあまりに、大声でいうのでした。
「いくじなし、ほっておけ・・・・」
しばらくして、また心配のあまりに二階に上がってみました。へやじゅう、書きなぐった原稿用紙が散らばっていました。処女は机の上にうつ伏して眠っていました。母親はにっこり笑って、静かに、音を立てないようにかえってゆきました。
「そうか、そうか、考え中だったんだ。また何か書いている」と、母親は安心して床につきました。
処女は立って窓をすっかりあけ放し、へやの中に月の光をいっぱいに入れました。外は明るく静かです。処女は、はるかなかなたを見つめていました。書いた紙は、きれいに折って、机の上の花びんの下におきました。処女の顔は、白く月の光に浮かんで見えました。そして、やがて石こう像のように冷たい動かぬからだとなりました。あたりは、いよいよ静かにさえわたっていました。へやの中はひんやりと冷気に満ちていました。処女のひとみは開いたまま、はるかなかなたを凝視していました。ははおやは、力なくへたへたとくずれてしまいました。あまりにもはかないので涙も出ないのです。

”死に場所を忘れなかった偉いでしょう。サヨウナラ”
    これが、花びんの下の紙でした。
              (35.10.4. 午前2時ごろ  キヨコ)

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この「別れても」の全容を知りたいお方は、次を参照して下さい。

  the_whole.jtdをダウンロード

   これは若き日、kimuratakumiが
      自 1967.11.10
      至 1968.12.08
   にかけて、筆写し、ワープロ文書に打ち直したものです。 

さすがに、またこれを打ち込むのは疲れました。ネットをやるために購入した「モバイル」は新機種といえども、変換作業は、難航いたしました。


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