人民の 人民による 人民のためにならない社会を推進する社会??
「信じるか信じないかは 自分の判断次第」とは、「イワシの頭も信心」などと言う事ではない。
多様性とは、何をしても許されると言う事ではない。 動物園のライオンやトラが抜け出し、公道を闊歩している風景を、サファリ・パークから飛び出したライオンやトラが町中で暴れている状況を思い描いて見るとよい。
多様性とは、自由を確保する仕組みを担うものなのだ。違法性、違憲性を許容すると言う事ではない。「自由のはき違え」を容認する事ではない。
「人民が人民のためにならない事をするはずがない」などと考えたフランス革命以後、とんでもない考え違いをしてきた人民である。ナチス政権は、このような人民、国民の途方もない考え違いで「合法的」に成立した政権なのである。多数派となれば、何でもできる。政権を取れば、どのような法律を作ってでも、「人民を従わせられる」などと考えて、「不合理」(恣意的)な権力行使が許されるのではない。近代は、このような不合理な権力行使を「抑制」するために、エネルギーを注いできたのだ。 ワイマール憲法・文化は、あまりにも貧弱であった。ヒトラー政権の違憲性、違法性をチェックし、その不合理(恣意的)な権力行使を抑制する事ができなかった。「違憲立法審査権」を持たなかったのだ。「人民が人民のためにならない事をするはずがないよ」などおめでたい社会だったのだ。
政権が為政、施政するに際し、自分の都合のよい、私人、国民にマイナスとなる行政活動を行うと事が不合理(恣意的)なものになる恐れがある。これを抑制するために、「理由の提示」を求められるのだ。「情報公開」がなされなければ、その提示がなされ得ないのだ。またその理由書を廃棄したり、作成していなかったりの不合理(恣意的)な行為は、違法であり、犯罪的なのだ。国、それ故政権がそのような事をやれば、「違憲行為」として審査の対象にすらなるのだ。まさしく「違憲立法審査権」はここに関わるのだ。少し前の防衛大臣がどのような問題に関わったか。私たちはその事に留意しなければならない。「公共の福祉」なる論理にも、「人民が人民のためにならない事をするはずがないよね。これは公共の福祉になっているよね。」、などと十分にチェックする事無く、安易安直に判断する事は、危険なのだ。
国民自身が、政権の「不合理」(恣意的)な権力行使を容認する風潮がある。 企業社会的隠蔽の論理でもって、事を正当化する理屈を述べるものが多いのではないか。
コメント